現状日本で発生している検死事情

検死といっても種類がある

司法解剖によって死体の死因を解読する、これが現代の日本社会で行われている検死のあり方となっている。ここから発展することはあっても、後退するといったこともないだろう。ただでさえ解剖というものが非常に難しい作業なのかを先にも紹介したが、医師希望と言っても大半が耐えながら作業を行っている現実を目の当たりにする。欲望の赴くまま、また研究の一環として行い続けるというような人は、世間としてみればサイコパスと言われるように何処か人と違う存在のように見られてしまう。事件として浮き彫りになる解体したい欲望とは、一体何を思いながらそのような思いを持つようになったのか、その因果を紐解くのは難しいだろう。

検死という作業を行う人々は常に緊張状態に置かれる、そもそも大半が理由をこじつけて何とか作業をしている現状の中で、色々と議論を醸し出している。そういった意見の中にはとても興味深いものもあれば、またただ検死といっても区別されているといったことも確認されている。今の日本における検死のあり方と、そしてこれからも事件が起きれば司法解剖という手段を利用できる人は絶対的に必要となってくる。

ただすべての人に理由という理由が植え付けられるほど定義化されたルールで人間を型にはめ込むことも出来ない、検死という作業についても犯罪から生じた死体を取り扱うこともあるが、中には全く別の形で生じることとなった死体に用いられている。

検死の定義

検死と呼ばれる作業には主に二つの目的となる行動原理が存在している。

  1. 刑事訴訟法および検死規則に基づく刑事司法上の検死制度
  2. 死体解剖保存法などに基づく公衆衛生上の検死制度

上記二つで検死は行われており、見てもらえれば分かると思うが一つ目は犯罪事件に関係のある死体が出た場合には事件を解き明かすために用いられる手段となっている。これは先程も紹介したようにおおよそ内容は大体検討はつくだろう、ここで注目したいのはやはり2つ目の検死という形についてだ。

2つ目の公衆衛生上の検死制度とは、具体的にどのような検死のことを指しているのかを考察してみよう。

公衆衛生上の検死とは

犯罪などの刑法関連の事件によって死体が発生した物に限っては、事件と関連性があるかどうかを含めて解剖することが義務といっても過言ではない。それに対して公衆衛生という理念に基づいての検死とは、一体何を目的として行われているのかが気になるところ。この公衆衛生上の目的と言われているのが、犯罪とは関係ないとされた異状死体を公衆衛生上の観点から死因の究明を行う制度となっており、事件と関係なくてもどうしてその人物が死亡してしまったのかを知るためにも公衆衛生上の観点から解剖という手段を試みて解き明かさなければならないという。

公衆衛生という言葉がまたミソだ、この言葉によって死体だからといっても長い目を見れば何か後世に残せるような情報を秘めているのなら探さなければならない。それによって医学的に何かしらの恩恵はもちろん、単純に死亡原因を特定することで今後多くの人を助けるために役立てられていくことも考慮に入れてのことと思える。

公衆衛生上を目的とした検死の場合、全国全ての地域で行えるわけではない。現状日本では東京を始めとした全国で5都市でしか公衆衛生上の検死実行は認められていない。こうして体系化された検死制度を見れば完璧といえるといった風に感じる人ももしかしたらいるかもしれない。ただ現に司法解剖に携わる人々を始めとした人々に言わせたら、現代の日本で行われている検死は問題点が多すぎるとも言われている。

何が問題となっているか

日本の検死制度で一番問題とされているのが、システムとなっている根幹がそもそも定義づけられていないという事にある。問題点を上げていくと実は一つに絞り切れない、そもそもこの国の検死と呼ばれる制度が本当に正しいものなのかと言われるようなシステムがまともに構築されないまま行われている専門家を始めとした実際の施術師達の意見が集められている。どうしてこのような問題が浮上してきたのかというと、そもそも日本には検死と呼ばれるような制度は存在していなかったことが一番の原因としてあげられる。

また犯罪と関係のない死体についての試飲についても実際には警察や区役所などの手で簡単に決めつけられてしまい、詳しく検査をする前から既に死亡原因は固定化されてしまっている点に有る。事件員関係がないのであれば警察が動く必要もないと考えてしまい、医師たちも不用意に司法解剖という仕事を増やしたくないと考えるようになったら仕事が来ても請け負いたくないと考えてしまうのではないかというのも少なからず関係しているだろう。

本来ならどんな死体であっても死因を解き明かし、これから先の検死について、また検死という枠を超えて医学という礎を更なる発達へと導くために行っていかなくてはならない。ただ仕事内容なだけあって、元々外科的手術そのものが国内できちんとした歴史を刻んできていなかったことも関係しているだろう。近代に少し近い時代からようやく海外で行われていた外科治療が日本でも行われるようになったが、そう考えてもまだ日本では2世紀しか経過していないという事実が浮かび上がってくる。日本ではない海外の医師たちはそうした取組には耐性こそつけながらも技術的に体系化された中で発達していることを考えれば、まだまだ先は長く遠い道のりの中にいるのかもしれない。

ドラマ『臨場』から考える、日本の検死事情