解剖をした上での誤認問題

先日、こんな出来事があった。ある高齢の男性が生活保護を申請しようと役所に向かったところ、申請は通らなかったのだがそこで男性としても、区としても驚くべき事実が浮上する。それは戸籍上では男性は既に死亡しており、今眼の前にいる男性は何者なのかという話になったのだ。当然見の覚えもない、むしろ本人は戸籍上では既に故人として扱われていた事実も驚きだが、何かがおかしいとして調査が行われた。その結果出てきたのは、1989年に河川敷にて身元不明の男性の遺体が発見され、その時男性の家族が父親であると判断したため、この時戸籍上は死亡したとして誤って登録されてしまったというのだ。その後戸籍を回復してもらうため裁判所に連絡、何とか復活してその後警察もとんでもない不祥事を起こしてしまったとして男性と家族に謝罪をすることになった。

色々と考えたいところはあるが、やはり身元不明の死体という時点で警察としても不用意に解剖できなかったため、身元確認をするために見てもらわなければならなかったのだろう。そこに当時家族たちにどのような思惑があったのかはこの際どうでもいいとして、25年間もの間知らず知らずの内に死んだこととして戸籍上では既に亡き者とされたとなっては正直シャレにならない。証明出来るだけの手段などがあったからこそ何とかなったが、身元不明の遺体でもやっはり手続きに則って解剖していればまだこのような取り違えというありえない事件が引き起こされることもなかったはずだ。

ではどうして警察は身元を確認するために解剖という手段を講じなかったのかというと、それは先に紹介した新法案から読み取ることが出来る。

旧来では身元不明では解剖は出来なかった

新法案の中で、身元調査をするために身元不明の死体は確認をするために最低限必要な体の部位を摂取することが出来るようになっている。主に血液や歯牙、骨といった一部を利用することである程度身元を特定することが出来るようになった。もちろんこうした身元を確認するための行為は医師免許を持っている人間だけが許可されている、その立ち会いのもとでようやく鑑定を行える仕組みとなっている。

この点からこれまでの解剖において明確に身元が特定できないような遺体の場合には、不用意に解剖が出来ないという風に定められていた。ただそれでもやはり限度があるため、何かしらの手段を持って特定させることもできるが、それでも出来なかった場合にはやはりそのまま残しておくといった選択肢を取ることは出来ない。身元不明の死体はそのまま適切な形で処置されるというところだ。

身元不明に死体に関しての情報は警視庁のホームページにて掲載されているが、それでも東京の場合だと平成13年までの情報しか掲載されていない。それ以前の身元不明者に関してはもはや誰に気づかれることなく、茶毘されるといったところか。

亡くなった人というのも別にお年寄りばかりではない、中には10代後半という年端もいかないような子供も身元が判明していないという。家族も気づくことなく、帰るところに帰れないまま遺体を処理しなければならない、警察としてもそれは悲しいところだ。故意に見ていないふりをしている人もいるかもしれないが、それでもやはり警察としては何とか届けたいと願うものだ。

こうした問題を解消するため、新法案ではたとえ身元不明で遺族という確固たるものがなくても解剖できるようになり、ある程度までなら情報を探る事ができるようになったというのは朗報なのかもしれない。生き別れてしまったということも考えれば、この法案が評価されている点も頷ける。

死んだ人間の思いが届かない

こうした事実を見てみるとよく分かるのが、たとえ死んでも家族に気づかれることもないままひっそりと死んでしまい、また迎えが来ることもなく何処かもわからない場所で茶毘されてしまう現実がある。現代社会において日常のように起こっている一幕だ、現実にこんなことが起きていると考えると臨場のような検視官達がどれほど事件究明を、そして身元不明の死体が誰なのかを突き止めるために活躍しているのかが理解できる。

キャッチコピーにもあった『お前の人生、根こそぎ拾ってやる』、この言葉には想像もしなかったような意味が込められていた。死んでしまえば死体には言葉も感情も、そして人間としての存在すらも全てが奪われてしまう。最悪誰に気づかれることなく、世間から忘れられてしまう事になってしまうと考えたら、生きている人間でもその恐怖に耐えられないのではないか。臨場において主人公たち検視官は死者の言葉を汲み取り、そしてこれまでどんな人生を歩んできて、どんな最期を迎えたのかを紐解く様子が描かれている。リアルな話ではこんな展開はまずないが、それでも誰かに気づいてもらえるだけありがたいことだ。

遺体が見つからない、そういう意味では東日本大震災でいまだ行方不明となっている人々も例外ではない。大半が海に沈んでしまったと言われ、さらには海洋生物の餌として捕食されているかも知れないと考えれば、もうまともに帰ってくる見込みは無いのかもしれない。それでも諦めきれない人はいる、懸命になって探し回って、見つけることが出来ればそれで十分だ。たとえ死体であったとしても、そこにいるのは紛れも無い大事な家族に変わりはない。

臨場、そこから見えてくるのは検視官と解剖、さらに身元不明の死体が誰に気づかれることなくそのままになっているという現代社会の闇が垣間見える。

ドラマ『臨場』から考える、日本の検死事情