行政解剖の真実

ここでも存在する裏の世界

司法解剖と行政解剖、先にも軽く紹介したが目的や理念などを考慮するとそれぞれが全く別物の解剖技術となっているため、区別しなければならないという判断を下す人が多い。司法解剖については異状があったからこそ調べる必要があった、行政解剖は事件性はなくても死因を判明させなければならない目的が有る、対比してみると本当に区別しなければならないのかというふうに考えている人も少なくないはずだ。性質や手順などを考えれば行政解剖は、日本では限定的であったとしても特別な許可証がなくても執刀できるように取り決められている。それだけ探求しなければならない事実と真実が死体には隠されているから、なんて言い方をすれば体裁よく決まっているだろう。

だがそんな行政解剖も、遺族としてみればただ単に人体実験をしているだけではないのかと見なすことも有るだろう。監察医のない地域では承諾解剖で遺族に了承を取らなければ解剖が出来ないようになっている、これは実際に抵抗があるからこそ解剖は認められないと考えている人が実際に多いからこそ取り決められた。死体をどう弄ろうが関係ないと思っている人もいるかもしれない、しかし遺族にとっては死体だとしてもそこにいるのは紛れもない大事な家族に変わらない。死してなお尊厳を剥奪するといった事をされるようでは、やりきれないだろう。

そういった意味で最近起こった開胸・開腹手術を行った医師による虚偽診断事件が良い例だろう。この医師は腹腔鏡手術という難度の高い手術を患者で練習材料という名のモルモットのような扱いで、10人もの助かるかも知れなかった患者たちを死なせた疑いが持たれている。生きている人間の話だが、これが例え死体であったとしても、自分たちの大切な家族を実験道具のような扱いをされるのだけは許せないと感じる人はこうした医療関係の事故も影響の一つと考えられる。

だが実際、本来は死因を解き明かす代わりに死体に対して丁重な扱いが求められる解剖にも信じられないような事実が行われているという。

まさに道具そのものだった

ここで例としてあげるのはとある人の話だ、その人もまた突然と言わんばかりの急死を遂げてしまい、遺族はどうしていいか分からなかった。死因は清掃作業中に起こった中毒死となり、事件性が特別感じられなかったために事故死として判断されるのだった。その後警察などが訪れての見聞などが行われた後、嘱託医という立場の解剖を担当する医師が遺族の前に現れる。解剖して死因を詳しく調べる必要があると、そんな風にこの場では司法解剖が行われるようになった。

遺族としては納得出来ないが、警察からの説明を受けてようやく納得した上で遺体を引き渡し、原因を究明してもらうために預けたという。そうして遺体は司法解剖が行われる病院へと運ばれたが、そこで行われたのは解剖という名の実験道具的な扱いだった。この時、死体を引取に向かうため葬儀屋が向かったというが、この時葬儀を受け持つプロでも本当に酷い、惨状という言葉を絵に描いたような状況になっていたという。やりたい放題、死体を入れる袋の中は血の海で満ち満ちていたというのだから、どういう扱いと成れの果てを想像したくもないのにできてしまう。

当然こんな扱いを受けるなど聞かされていなかった遺族は、丁重に扱ってくれるという話だったのにひどい裏切りを受けたと、故人の尊重と存在そのものを否定された事は決して許される所業ではない。まさか司法解剖でそんなことが行われるわけがないと、そう思っている人もいるかもしれないが、執刀する医師がそう考えていなかった時点で、もはや言葉が尽きるほどに残念な結果になってしまう。解剖をすることで死因を究明すると行っても、一歩間違ってしまえば医師もまたただ悦楽のために解剖しているのではないかと取られかねないのだ。

解剖という手段

少女が同級生を殺害・解体したという事件を取り上げたが、この日本でもそうした人体をバラバラにして殺害する事件はいくらでも存在する。そのどれもがそこに恐怖や懺悔、後悔といった感情を抱くことなく、ただただ己が興味関心、性的快楽といった常軌を逸したとしか言いようがない動機で行ったというのだ。そもそも自分は悪いことをしていない、解剖なんていくらでもしているではないかと、そんな風にさえ考えているのかもしれない。では許されるのかと、そんな事は誰もが許すはずもない。自分が愛する人が跡形もなく、原型を留めていないほどに分解された挙句、被害者に対して悪かったという感情を持つこともない、この世界にはそういった人間が存在しているのは間違いない。

ただそれでも現代はまだマシな方なのかもしれない、昭和初期から中期にかけて起こった世界大戦、その中には戦争という物を利用した非道な人体実験と解剖が繰り返し秘密裏に行われていたことも確認されている。当時としてはそれらが医学的見解から正しいという一言で肯定化されていた事を空恐ろしく感じる。人類の歴史は闘争と本能の歴史と言われているが、人体解剖という手段に興じる人々がかつて当然のように世間を闊歩していたというのも、認識しなければならないところだ。

こうした歴史を知ることで、人体解剖という手段に興味を持った、また人が死ぬという事、臓器というものはどんなものなのだろうかと思うが、それを実際に見たいとは思わない。ただ実際人体解剖を行っていた人々はそうした血の欲求に逆らえなかった部分があるのだろう。本来なら抑制しなければならない狂気が表に出たことで凶行に移った、今となっては真実を知る術はないがおぞましいのだけははっきりしている。

ドラマ『臨場』から考える、日本の検死事情